雪ヶ谷鍼療所院長 矢野貴大
1992年10月 千葉県旭市生まれ、
生後半年で膀胱の手術で手術。
その後も学生時代に幾度となく
ケガや病気をし、
医療の世界に興味を持つ。
2010年〜2014年
長らく医学部を目指したが
4年連続不合格。
2018年3月 東京有明医療大学卒業
2022年〜現在 鍼灸整骨院に勤務した後、
雪ヶ谷鍼療所を開院。 現在に至る。
わたしの思い
幼少期
元々、私自身が身体が弱く、先天性の尿細管狭窄症といって、尿が非常に出づらかった。
それによって膀胱や腎臓が炎症を起こし、腎臓を一個取る手前までになってしまった。
幸いにも看護師だった母が早めに気づき、生後半年で手術、無事完治した。
その後も、6歳の時に左腕を骨折し、2回目の手術を経験した。
また、疲労骨折に靭帯損傷、気胸になったり、風邪も引きやすいなど、病院通いが多く、
高校2年生の頃には姉が精神的に病んだり、私自身も勉強する意味や学校に通う意味が見出せなくなり、
登校拒否など引き篭もりにもなった。
こうした理由から、自然と人の心や体の問題に興味を持ち、それが医学への興味となるのに時間はかからなかった。
いつしか、人の役に立てる人間になりたいと医師を志すようにもなった。
しかし、医学への興味は強くても受験勉強となると話は違い、数学や英語などなぜやるのか?
と全く興味が湧かなかった。
その為、勉強へのモチベーションが上がらず、医学部には4年連続不合格。
なぜ自分は勉強ができないのか?医師になりたくないのか?と失意に沈んだ。
その後、見かねた幼馴染や母に、「医師だけが医療でもないし、人のためになる医療職は他にも多くあるよ」
と言われ、更には祖父が末期癌の疼痛で苦しんだこと、
「鍼灸でならそういった、末期癌患者の疼痛緩和もできるみたいよ」
という、母の勧めもあり、鍼灸で癌の疼痛緩和ができるようになろうと鍼灸を学ぶ大学に進学しました。
大学時代
大学では以前より学びたかった解剖学、生理学といった西洋医学の勉強から、
経穴(ツボ)や陰陽五行といった東洋医学の勉強を一生懸命に頑張った。
私は周りの現役合格した同級生よりも4歳も歳が上だったこともあり、舐められたくないという思いと、
せっかく大学に来たならとことん勉強しようと、
毎回の授業では1番前に座り、先生に質問の連続、家でも勉強主体の生活を送った。
その甲斐あり、在学中では2度首席となった。
しかし、勉強面を生活の中心においていたので、同級生との交流が薄いと感じた大学2年生時に、
友人に勉強を教えるようになり、そこから関わりが広がり、非常に友人には恵まれた大学生活と変わりました。
今でも一緒に鍼灸について熱く語れる友人や、相談し会える友人が何人かいるのも、
苦楽を共にしたからだと当時を振り返って改めて思います。
ただ、友人との交友関係は順風満帆と言える大学生活だが、肝心の鍼灸は?
というと、大学では西洋医学が主体であり深く学びたかった東洋医学は、
思っていたよりも学べませんでした。
何より衝撃的だったのが、大学3年生の時に、ゼミの先生から
「癌の疼痛緩和は薬である程度良くできるから、鍼灸は今ほとんど使わないよ」
と言われたことでした。
当時の私にとって、鍼灸をやる理由が消えた瞬間でした。
これから自分は何を目標にして鍼灸をやれば良いのか、鍼灸でやりたい事がなくなり、
当時は今ほど知識もないので、鍼灸をやる意味がなくなってしまったこと、
また、大学で主体的に学ぶ現代鍼灸は決まった場所に鍼を刺すことが多く、
これなら自分がわざわざ鍼を打たなくても、他の誰でも良いのではないか?
と私は思ってしまいました。
勿論、現代鍼灸の素晴らしさは今は十分に理解しているが、当時は分かりませんでした。
以後、大学での勉強は、首席を目指し、授業料の半額を免除してもらい、
親の負担を減らしてあげたいと思うくらいでした。
その為、将来やりたいことが無くなり、FXや仮想通貨といった手軽に稼げる方法がないかなど探して、
投資にハマり、バイトで稼いだお金のいくらかを社会勉強代として払う羽目になりました。
そうこうしているうちに、大学4年生になり、川嶋朗医師の講義を大学で受けていたこともあり、
医師でありながら様々な治療法を知っている先生に憧れたこと。
将来を考えた際、医師のほうが何でもできるし、学んだ東洋医学の知識も無駄にならない。
自分が医師になることで鍼灸師の地位向上にも一役買うことができるのではないか、
やはり医師になったほうが良いのではないかという思いが再燃しました。
その結果、4年生になってすぐに、再度医学部を目指すことに決めました。
医学部再受験時代
そこからは、医学部受験の情報を集めつつ、先生から頼まれた友人達に勉強を教え、
国試の復習を行いつつ、少しずつ医学部の再受験勉強を開始。
本格的に再受験勉強をするのは国試の後と決めていたので、友人と卒業して離れるのはとても寂しいが、
早く国試が終わらないかなと良く考えていました。
その後、無事に国家試験に受かり、晴れて卒業。
再受験の勉強が始まった。
「卒業後、医学部再勉強を開始。約9ヶ月の勉強で難関大学合格‼︎」
とはならず、私立の医大に筆記試験が受かったのみで、二次試験の面接で落ちてしまった。
非常に悔しく、親や当時付き合っていた今の妻に申し訳なさでいっぱいでした。
手応えは感じていたので、あともう一年勉強すれば受かるだろうと思ってはいた矢先、
最愛の父の末期癌が判明。
膵臓癌だった。
分かった時には癌も大変だが、癌の影響で太い血管が切れたり、
他にも切れそうな血管があるなどで、下手したら1週間もたず死ぬかもしれないと担当医から言われ、
非常に困惑したのを今でも鮮明に覚えています。
父がいなくなったら矢野含めた母や姉など、家族はどうなるのかと、恐怖と不安感で一杯になった。
幸いにも父は早急な手術や対応により、血管の問題は解決したが、それは末期癌の治療の始まりだった。
抗がん剤治療を選択した父の意思を尊重し、鍼灸治療や身体を揉んであげたりとサポートをしながら、
入退院を何度かして日々痩せ細り、頭髪が抜ける父の闘病生活の中で関わる医師の先生達を見ていて、
果たして本当に医師になることが自分の人生で心の底からしたい事なのか?
と非常に迷いました。
なぜ自分はここまで医師に拘るのか?
そもそも本当に医師になって何がしたいのか?
と考え、悩み続けながら受験勉強をしていました。
そんな中、新型コロナウィルスが流行り出し、当時は分からない事が沢山ありましたが、
医師会をはじめ何かおかしくないかと思いました。
人と人とが分断され、恐怖ばかり煽る、勿論感染拡大をさせないためという名目がありましたが、
会いたい人にも全く会えない国となりました。
そんな日本の医療会と自分の考えに隔たりも感じ、最終的に医師になるという魅力が全く感じられなくなり、
医学部への受験を断念しました。
鍼灸に目覚めた時代
受験をやめた後は、塾講師のバイトをしたりしましたが、大学進学も遅く、
世間一般の人より社会に出るのが遅いと思っていたので、より焦りや不安も大きく感じていました。
そんな時、丁度インドから帰国した幼馴染と会う機会がありました。
会って話をしていると、幼馴染から「鍼灸師に未練がある気がする、
誰でも良いから鍼灸で開業している先生の治療を一度受けてきたらどうか」
と言われ、大学の先生くらいしか鍼灸の先生との関わりがなかった自分は、
それもそうだなということで、仲が良かった後輩の叔父が鍼灸師として開業しているので、
その鍼灸院に治療を受けに行きました。
ここが私の人生のターニングポイントだったと今では確信しています。
当時、私は鍼灸師の資格を持ちながら、ツボについて心の底から信じたことはありませんでした。
しかし、磁石や、カラーテープといったものをツボに当てる、貼るといった事で、
筋肉の緊張が取れる感覚を非常に明瞭に感じました。
ツボを活かした治療を初めて受け、身体の変化が分かった時、心の底から感動し、
こんなに面白い世界があったのかと雷に打たれたかのような衝撃と、
ワクワクした気持ちが、噴水の様に溢れ出てきたのを今でも鮮明に覚えています。
鍼灸の可能性、人の身体の神秘に気づき、非常に興味が湧いたこと、
私のように信じていなかった者の考えを変えるくらい、
この素晴らしい鍼灸医学を世に広めたいという強い想いが生まれました。
また、病院に行っているのに何だが調子が良くならないなど、
既存の現代医学で中々改善しない人達を救えると確信したからです。
実際、ご来院頂いた人達の治療を通して、「本当に鍼灸ってすごいなぁ」
と思うことが多々あり、治療で良くなった人達からお礼を言われ、笑顔でお話する時が何より幸せです。
本当に鍼灸師になって良かったと思う瞬間です。
『人は心と体、どちらも健康であってこそ、真に健康である』と言えます。
そのような考えから、私はこれからも、今、目の前にいるあなたの施術に全力を尽くし、
あなたの健康と幸福のお役に立ちたいと考えています。
雪ヶ谷鍼療所 院長 矢野貴大